オリヴィエ・メシアンの作曲家人生:第1回「生涯と業績」
オリヴィエ=ウジェーヌ=プロスペール=シャルル・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen 1908年12月10日:アヴィニョン生 – 1992年4月28日:パリ没)。
フランスの作曲家。20世紀の重要な作曲家の一人です。彼の音楽は独自性に満ち、その作品によっても教育活動によっても第二次世界大戦前から現在にいたる現代音楽の展開に大きな影響を与えました。
1. メシアンの生涯
早期の音楽の才能と自覚
メシアンは両親の励ましにより、幼いころから音楽を天職として自覚するようになりました。
父のピエール・メシアンは英語教師で、シェイクスピアの全作品を翻訳した人物。母のセシル・ソヴァージュは詩人でした。メシアンは7歳の時に作曲を始めます。
音楽院での学びと初期の作品
1918年からはジャン・ド・ジボンに和声の基礎を学びます。ナントで彼からドビュッシー「ペレアスとメリザンド」の総譜を贈られました。ドビュッシーを知ったことでメシアンは作曲家となる決意を強めます。
1919年に11歳でパリ音楽院に入学し、和声法、対位法とフーガ (1926年1等賞)、ピアノ伴奏法 (1928年1等賞)、音楽史 (1929年1等賞)、作曲法 (1930年1等賞)を学びました。
J. ガロン、 N. ガロン、コサード (対位法とフーガ)、デュプレ (即興演奏とオルガン)、モリス・エマニュエル (音楽史)、デュカ (作曲法)らに師事しました。
ピアノのための <前奏曲集 Preludes> (1929)は音楽院での最後の数年間に書かれた作品です。
教育とオルガニストとしてのキャリア
メシアンは学業を終えるとすぐにパリのトリニテ教会の首席オルガニストとなりました(1930)。その後40年以上にわたってその地位にとどまります。
1936年にはパリのエコールノルマル・ド・ミュジックとスコラ・カントルムの教師となり、同年、ルシュール、ボドリエ、ジョリヴェらとともに、「若きフランスたち」というグループを結成しました。これは何らかの特定の美学ないし共通の観念というよりも、むしろ4人の作曲家の友情で結ばれたグループでしたが、第2次世界大戦によって活動を断たれたため、それほど長くは続きませんでした。
第二次世界大戦中の創作と捕虜生活
1940年にメシアンは捕虜となり、「世の終わりのための四重奏曲 Quatuor pour la fin du temps」を作曲します。同作品は1941年に5000人の捕虜を前に初演されました。
同年に釈放された後、パリ音楽院の和声法の教授に就任。2台のピアノのための「アーメンの幻影 Visions de l’amen」 (1943) と「幼子イエスに注ぐ20のまなざし Vingt regards sur l’enfant Jesus」を作曲したのはこの頃です。
1944年、当時の彼の音楽思考を概説した理論書「わが音楽語法 Technique de mon langage musical」を出版します。
2. メシアンの教育と作品
ドラピエールのセミナーと若い作曲家たち
1943年から1947年までメシアンはギーベルナール・ドゥラピエールの家で半ば私的な授業を行いました。
そうした分析と作曲のセミナーには若い作曲家たちが集まり、中には、ブレーズ、イヴォンヌ・ロリオ (後のメシアン夫人)、イヴェット・グリモー、ジャンルイ・マルティネ、モリス・ル・ルーなどがいました。
これらの弟子たちは前衛的な精神を象徴して、「矢 les fleches」と称していました。メシアンがストラヴィンスキイの「春の祭典」の分析を初めて教材として用いたのは同セミナーにおいてでした。
以後、彼はフランス国外でも教授活動を始め、ブダペスト (1947)、タングルウッド (1948)、ダルムシュタット (1950~53)、ザールブリュッケンなどで教鞭を執ります。
フランス国内外での教育活動
一方フランス国内での教育活動においても、1947年尊敬される校長クロード・デルヴァンクールによって彼のためにパリ音楽院に創設された音楽分析のクラスの教授に任命されました。
20年近くにわたる同音楽院でのメシアンの授業は、音楽院の伝統的な枠組みを超えて、ギリシアの旋法やヒンドゥーのリズムから鳥の歌にまで及びました。彼はドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」や新ウィーン楽派のセリーによる作品に対するときと同じ情熱と明晰さを持って、ベートーヴェンの四重奏曲を分析しました。実際、この分析のクラスは世界各地から集まった若い音楽家たちの間で評判となり、「従来の作曲法を超えた」クラスとして評価されました。
「トゥランガリラ交響曲」の作曲と初演
モーリス・ル・ルー指揮
トゥランガリラ交響曲
「トゥランガリラ交響曲 Turangalila-symphonie」はクーセヴィツキーの委嘱により1946年から1948年にかけて作曲され、1949年にボストンでバーンスタインの指揮により初演されました。
1950年代に入ると、メシアンは重要な若い作曲家たちとの接触を強めました。その大部分は彼自身の弟子であったが、そのときは教師としてよりもむしろ一人の作曲家として接触しました。
また彼は、プレーズが1954年に創設したドメーヌ・ミュジカルの演奏会を一貫して支持し続けました。この演奏会はメシアンの作品を幾つか初演する機会を提供しました。「鳥のカタログ Catalogue d’oiseaux」もその一つで、メシアン50歳の誕生日を祝ってロリオにより演奏されました。
3. 鳥の歌への愛と作品の源泉
メシアンと鳥の歌
若い頃からメシアンは鳥の歌を非常に好み、多くの時間を自然の中で鳥の歌を採譜することに費やしました。その際、テープレコーダーではなく伝統的な記譜法を用いました。
彼は幾つかの鳥類学会のメンバーでした。
鳥の歌は、「鳥の目覚め Revel des oiseaux」 (1953)、「異国の鳥たち Oiseaux exotiques」 (1955~56)、「鳥のカタログ」などの作品の直接の源泉であり、後年の多くの作品でも同様でした。
1962年に彼はロリオとともに日本を訪れ、このときの印象を基に「7つの俳句 Sept haikai」 (1963 ドメーヌ・ミュジカルで初演)を作曲し、次いでブルガリアとアルゼンチンを訪れ、ブエノスアイレスではリズムに関する一連の講演を行いました (1964)。
1965年には、彼の講演は公的機関に高く評価され、フランス政府から「わたしは死者の復活を待ち望む Et exspecto resurrectionem mortuorum」の作曲を委嘱されました。
両世界大戦の戦没者にささげられた同作品は、パリのサントーシャペルで初演され、次いで1965年7月20日シャルトル大聖堂で、ド・ゴール将軍の列席のもとに演奏されました。その後は、ドメーヌ・ミュジカルにおいてもブレーズの指揮で演奏されています。
1966年にフィンランドへ旅行した後、メシアンはパリ音楽院の作曲科教授に任命され、また1967年には学士院の会員に選出されました。
同年、彼の名を冠した国際ピアノコンクールがロワイヤン音楽祭の一環として創設されました。1971年、エラスムス賞を受賞。
4. メシアンの国際的評価と晩年の活動
オペラの創作と初演
1975年パリ・オペラ座総監督ロルフ・リーバーマンから新作オペラの委嘱を受けたメシアンは、1978年にパリ音楽院の作曲科教授を定年で辞任した後、オペラ「アッシジの聖フランチェスコ Saint Francois d’Assise」の創作に専念します。
8年余りの歳月をかけて書き上げられた3幕8場から成る同オペラは、1983年にパリ・オペラ座で小澤征爾の指揮により初演されました。
その後の作品に、オルガンのための「聖体の秘跡の書 Le livre du Sainte-Sacrement」 (1984)、ピアノのための「鳥の小スケッチ Petites esquisses d’oiseaux」 (1985)、アンサンブル・アンテルコンタンポランからの委嘱作として作曲され、1988年にパリで行われました。
「メシアン生誕80年記念演奏会」における新作の初演
「メシアン生誕80年記念演奏会」ではロリオのピアノ独奏とブレーズの指揮する同アンサンブルの演奏によって、1986年に初演された作品《ステンドグラスと鳥たち》が披露されました。
また、1987年には「秋の音楽祭(フェスティヴァル・ダルドトンヌ)」にてブレーズ指揮のBBC交響楽団とロリオのピアノ独奏により《天より来た都 La ville d’en haut》が初演されました。さらに、1989年にはオーケストラのための作品《ほぼ笑み Un sourire》が誕生しました。
受賞と国際的活動
この間、1985年には第1回京都賞を受賞し、翌1986年には「アッシジの聖フランチェスコ」の演奏形式による日本初演のために来日しました。
また、ニューヨーク・フィルハーモニックからの委嘱を受け、オーケストラのための作品《彼岸を照らす閃光 Eclairs sur l’Audela》を完成させた後、1992年4月28日未明にパリで逝去されました。なお、1993年にはバスティーユ・オペラ座の音楽監督チョン・ミョンフンに献呈された未完成オーケストラ・スコアが発見されました。
5. オリヴィエ・メシアンの有名な録音アーティストとその演奏スタイル
トゥランガリラ交響曲
チョン・ミョンフン(Chung Myung-whun)
韓国出身の指揮者、ピアニスト、作曲家で、国際的に名高い音楽家です。セルゲイ・チェリビダッハの下でピアノを学び、その後、フランス国立音楽院で指揮を学びました。
彼は特にフランス音楽やドビュッシー、ラヴェル、メシアンの作品に造詣が深く、その解釈は高く評価されています。
世の終わりのための四重奏曲
アンティエ・ヴァイトハース(ヴァイオリン)、ソル・ガベッタ(チェロ)、ザビーネ・マイヤー(クラリネット)、ベルトラン・シャマユ(ピアノ)
メシアンがドイツのシレジア地域の収容所で過ごしていた時に作曲された作品です。1941年の初演ではメシアン自身がピアノを担当し、他の楽器は同じ捕虜収容所で演奏する仲間たちが担当しました。
7つの俳句
ピーター・ドノホー(Peter Donohoe)
1953年マンチェスター生れのイギリスのピアニスト。
ドノホーは幼少期から音楽の才能を発揮し、王立音楽院で学んだ後、国際的なコンクールで優勝するなど注目される存在となりました。
彼の演奏レパートリーは幅広く、特にロマン派や20世紀の音楽、またラフマニノフやプロコフィエフなどのロシアの作曲家の作品を得意としており、彼らの音楽の情熱や複雑さを繊細に表現します。
鳥のカタログ
イヴォンヌ・ロリオ(Yvonne Loriod)
フランスのピアニスト、作曲家。
イヴォンヌ・ロリオは、オリヴィエ・メシアンと出会い、彼の音楽の影響を受けました。後に二人は結婚し、長い間音楽的な共同作業を行いました。イヴォンヌはメシアンの多くの作品の初演を行い、特にピアノのための作品に取り組みました。彼女の演奏はメシアンの独特な音楽性を的確に表現することで知られています。
6. まとめ
オリヴィエ・メシアンは幼少期から音楽の才能を示し、独自の音楽言語を築き上げてきました。
メシアン音楽は鳥の歌や自然界の要素に深く触発され、その作品には独特の音楽的風景が広がっています。教育者としても重要な役割を果たし、若い作曲家たちに影響を与え、新しい音楽の方向性を模索させました。戦時中の捕虜生活や国際的な評価を経て、メシアンの作品は現代音楽の重要な一部となりました。
彼の没後もその影響と音楽的遺産は広く受け継がれています。
次回はメシアンが自らを「作曲家兼リズム家」と称した背後にある音楽語法とリズムの重要性に焦点を当てて解説します。
彼の作曲家としての旅路は、古代ギリシャの韻律から中世のリズム、さらには西洋音楽のリズム法の影響を受けて独自のリズム表現を創造しました。次回の記事では、メシアンの音楽語法がいかに彼の作品の魅力や表現力に影響を与えたかについて詳しくご紹介します。